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<2016年の主な予定> 

*セカンドスパイスでの個展日程に変更がありました。


■個展

2月24日(水)~3月1日(火)

会場:阪急百貨店北花田店


■二人展 増田哲士(陶器)・ 稲葉崇史(木工)

5月27日(金)~6月7日(火)

会場:一草庵(岡崎市)


■五条坂陶器祭

8月7日(日)~10日(水)

会場:京都五条通北側A地区10番


■個展

9月16日(金)~9月27日(火)

会場:セカンドスパイス(京都)


■六花展 増田哲士(陶器)・ 稲葉崇史(木工)・竹村優利佳(織)

10月8日(土)~10月13日(木)

会場:五風舎(奈良市)


■個展

12月3日(土)~12月11日(日)

会場:Cafe&Gallery りほう(京都)

2014年1月10日金曜日

ルーシー・リーの作陶技術考察

ルーシー・リーの作陶技術考察


ほとんどの陶芸家が低温で素焼きした素地を泥状の釉薬の中に浸して施釉し、
高温で本焼成するという二段階のプロセスで焼成しているのだが、
ルーシー・リーは、素焼きをしていない乾燥した生の素地に刷毛で釉薬を塗り、一度だけ焼成して(*1)作品を仕上げている。
このことによって、釉薬と素地がより密接に結びつき独特の風合いをもたらしているとされている。
作業中に破損しやすく、時間と手間もかかる効率の悪いとも言える方法で、全ての作品を作り続けたルーシー。
彼女のこの作陶スタイルについて私が日頃の経験から感じたことと、工房訪問時の記憶を踏まえて少し考えてみたいと思う。

ルーシー・リーが電気窯による酸化雰囲気で焼成していたのは広く知られていることだが、
まず、焼成雰囲気が作品に与える影響から考えてみる。
やきものの焼成方法は大きく分けて酸化焼成と還元焼成のふたつがある。
このふたつの焼成雰囲気が作品に与える影響は非常に大きい。そしてその違いを決める最も重要なカギとなる物質は鉄分である。
まず、還元雰囲気で焼成されると素地中の鉄分は一酸化炭素により酸化第二鉄から酸化第一鉄に還元される。
この酸化第一鉄は強力な融材となり釉薬と活発に反応し溶け合い、素地と釉薬の間に密接な中間層が形成される。
そしてこの中間層の形成により釉薬の発色は決定される。
では、酸化焼成はどうかというと、酸化第二鉄はほとんど変化しないまま焼成を終えてしまう。
釉薬と素地は個々に反応して溶けていき、それぞれの結びつきも活発には起こらない。
つまり密接な中間層は形成されにくいのである。
このことから考えると、果たして生素地に釉薬を刷毛塗りしたからといって、
電気窯の酸化焼成で釉薬と素地が密接に結びつくのかという疑問がわいてくる。

あの独特の風合い質感はどこから生まれるのか。
強力な効果を放つ溶岩釉の素、炭化珪素(*2)はさておき、鉄よりも反応性の良いマンガンや銅などを素地に練りこむことで、発色効果を高めているが、いずれも表面の質感までを左右しているとは考えられない。
ところで、彼女のノートを見ると度々登場するレシピがあることに気づく。
それは熔化化粧とも呼ばれるもので、素地と同じ土または磁器土に融材として石灰を入れた化粧泥である。
釉薬ほどは溶けないが素地よりは溶けるというもの。これを釉薬と素地の間に塗っているのだ。
釉薬とより反応性のある土台を素地の表層に作ることで、強制的に中間層を発生させているのだと考えられる。
つまりこの熔化化粧は、より密接かつ複雑な釉薬と素地の反応を電気窯の酸化雰囲気で得るために導き出されたひとつの答えだったのだ。
そして、あの独特の風合いは綿密に計画された釉薬の積層によって生み出されていると言えるだろう。

ではなぜルーシーは刷毛塗り生掛け一度焼きにこだわったのか、工房の物理的条件から考えてみる。
浸し掛けの作陶スタイルで、彼女のように様々な釉薬を使い分けようとすると多くの釉薬バケツを用意しなければならないのだが、
実際自分の工房からバケツが無くなったら、どれほどすっきりするだろうと思うほどにバケツの存在は工房を圧迫するのである。
十数坪ほどしかないアルビオンミューズの小さな工房は、極限まで無駄をそぎ落とし整頓されていたが、
釉薬バケツを置くようなスペースはほとんど無かった。
制作中の作品も多く並べられるようないわゆるサン板と棚のようなものは無く、少量ずつ制作されていたようである。
ロクロ成形後すぐに乾燥用に暖められたレンガに乗せ、次のプロセスである削り作業への時間短縮を図ったのだろう。
そして削りが終わるとまた乾燥レンガに乗せ、完全に乾燥した後施釉、そしてまた乾燥レンガへ。
施釉後の作品は特に衝撃で破損しやすいため、重ねて保管していたとも考えにくい。
おそらくすぐさま窯詰めされたのだろう。とにかく置き場所が少ないのである。
だとすると、窯の温度分布を考慮して制作していかなければならない。
どんなに優れた窯でも温度分布に差があるものだから、当然彼女のヴィンテージ級の窯にも温度差があったはずだ。
上蓋式の窯は底の段から順に上の段へと詰める。仮に底の温度が上りにくい窯の場合、融点の低いものを底に詰めることになる。
そのつど釉薬を調合していた彼女のことだから、そのスペースに最適な調合の釉薬を選んで塗っていたのだろう。
短いサイクルで少量の作品を個別に仕上げ、徐々に窯詰めを進め、一杯になったら焼成する。
アルビオンミューズの日常はこんな感じだったのではないだろうか。

もちろんバケツを置く場所が無いということが作陶スタイルを決定付けた要因でないことは、彼女の作品を見ればすぐわかることだ。
そもそもこのスタイルはウィーンで制作していたころにはすでに確立されていたことから考えても、彼女がバケツの置き場所に悩むことなど初めから無かっただろう。
釉薬の刷毛塗りは均等に美しく塗ることが難しく相当な技術を必要とするが、
数種類の釉薬を塗り重ねたり塗り分けたい場合や、厚みを正確にコントロールしたい場合には適している。
そして、素焼きした素地よりも乾燥した生素地の方が水分の吸収が緩やかで、刷毛塗り作業がしやすい。
素焼きをしないことは電気代をカットでき、常に倹約を心がけていたという彼女のポリシーにも合致する。
制作環境の物理的制限、求める装飾効果と作業性、焼成とコスト、すべての要素が矛盾無く結びつき完成された独自の作陶スタイルだったのだ。

ルーシーが半世紀もの間過ごしたアルビオンミューズには一人の女性が陶芸家として生きていく最低限のものだけが揃えられていた。
それは長い年月の中で自分自身と向き合い、実験と修練を繰り返し、ただひと筋にやきものを作り続けた彼女の生き方、人生そのものを映し出している
"I just make pots."という彼女の言葉からは強い信念と謙虚さ、不屈の忍耐力を感じずにはいられない。





*1 文献によると一度焼きあがったものを手直しして再び焼成することもあったという。作品集の写真をよく見ると確かに焼きなおししたと思われる作品をいくつか見つけることができる。おそらく「ぶく」と呼ばれるクレーター状の欠点ができたものに釉薬を上塗りした後焼き直していたのだろう。
ぶくの出たところに金彩を施しているものも見られるので、焼き直しのパターンもいくつかあったのではないかと思われる。

*2 炭化珪素(シリコンカーバイド)・・・ 炭素と珪素の化合物、高い硬度と耐熱性から主にカーボン繊維、研磨剤、窯材(棚板)などの工業窯業原料として使用されている。
釉薬などに添加し焼成すると高温時に炭素と珪素が分解する。珪素は釉ガラスの主成分として吸収されるが、炭素は周囲の酸素を奪って二酸化炭素(炭酸ガス)となって放出される。この時釉薬の表面に現れる発泡痕がまるで溶岩のように見えることから溶岩釉と呼ばれている。還元作用があり、発色にも影響を与えていると考えられる。
当初は還元作用を求めて釉薬に添加したが、思いもかけずできあがった泡だらけの作品を面白いと思ったのが溶岩釉の始まりではないかという見方もある。



参考文献

ルーシー・リー
トニー・バークス著、西マーヤ・荻矢知子訳
ヒュース・テン 2001年9月


ルーシー・リー展
2010年回顧展図録

2014年1月9日木曜日

ルーシー・リーのこと



ルーシー・リーのこと

はじまりは1989年の夏、当時高校2年生だった僕は習っていた学習塾の先生に勧められるまま東洋陶磁美術館へ向かった。
その先生はアートや音楽にも造詣の深い方で、美大志望の僕にいろいろと面白い話をしてくださっていたのだが、
今回はとにかくものすごく感動したので是非観に行って来なさいとのことだった。
僕は正直その時、一体何の展覧会なのかよくわかっていなかった。
ただ本日が最終日で急がないといけないということだけわかっていた。
果たして淀屋橋駅に着いたのだが、行ったことももちろん聞いたことも無い美術館。
どこにあるやら中之島を走り回ってやっとの思いでたどり着いた。閉館30分前だった。


そこにあったのはまるで宇宙人か別世界の住人が作ったかのような、見たことも無い物体の数々だった。

神秘的で凛々しく、ぴんと張り詰めた緊張感と静寂の中、音もなくまわり続ける独楽のようなフォルム。
あらゆる言語を超越して静かに語りかける、それは明確なメッセージではなく、ただ感じるのは深い安らぎと調和。


これまでの人生で全く興味が無かった、いや存在すら認識したことが無かった「やきもの」。
僕が「やきもの」というものを認識したのはこの時だった。



そしてグラフィックデザイナー志望から方向転換した僕は大学へ進学した。
当時の自分を卵から生まれたての雛に例えることがあるのだが、
人生ではじめて見た「ルーシーのうつわ」だけが至高で他は見るに値しない、というほど完全に脳に刷り込まれていた。
ルーシー・リー崇拝時代のはじまりである。
あまりにも好きすぎて、しかし当時は出版物や情報もほとんど無く、東洋陶磁での図録も売り切れて入手できなかったこともあり、
数少ない常設展示を求めて京都近代美術館へ行ったり、書店で小さい写真を見つけては大喜びしていた。
そして、ついに本人に会ってみたいと・・・。

今にして思えば、幼い頃から辛気臭いと言われていた僕がよくまあ大それたことを考えたものだと。
しかしあの時、何のためらいもなく行動できたことは奇跡だった。

アルビオンミューズの2階、あたたかな陽の差すベッドルームでの光景は今でも鮮明に目に焼きついている。
僕はあの時、生涯消えることのない光をもらったのだと思う。
そしてその光はまるでガラドリエルの玻璃瓶(*1)のようにどんなにつらいことがあっても、
僕を挫けさせることなくやきものへの道を照らし続けている。





二度目の渡英の時、病床の彼女を訪ねることはしなかったが、
アルビオンミューズ入り口の石畳に立ち、僕は誓いを立てた。
必ず「やきもの」を生涯の仕事にします、と・・・。
それからというもの、僕は一直線に彼女のうつわを目指した。
イギリスで手に入れた数々の本を辞書を片手に熟読し、持てる知識と技術を駆使して全力でルーシーのコピーを作った。
それが上の写真のものである。

今見るとツッコミどころ満載で本物とは程遠い代物だが、当時は相当なエネルギーを投入して作った渾身の作だった。

しかしこの後、本当に尊敬すべきはその生き方にあると気づき、コピーを作ることやスタイルを真似ることの無意味さを感じた。



卒業と同時に彼女のうつわを意識的に見ないように、遠ざけるようになった。
ルーシー・リー封印時代の始まりである。
三重県名張市に小さな窯を持つことができた僕は、当時お世話になっていたお店の注文から伊賀焼き風の土鍋を作り始めた。
初めはものすごく抵抗があった。
それがどうしたことか、まるで土鍋屋にでもなったかのように土鍋ばかり作る日々が訪れる。
冷却還元(*2)による深いビードロ釉(*3)の発色に成功しどんどん土鍋作りが面白くなっていったのだ。
僕のある種の勘違いはさらに加速し、伊賀焼きの人になる!とまで思うようになっていた。
何でもできるというくらいの根拠のない自信は満々だったが、
鉈で割ったような野武士的な作風が身上の伊賀焼きなど、所詮青白いもやしっ子の僕にはできっこなかったのだ。
どこか無理をしているような、そこはかとない違和感を感じはじめていた。

そして初めての個展を催した際、在学中以来お世話になっていた故宮下善爾先生が僕の仕事を見てひと言、
「そんな簡単に自分の好きなもん捨てたらあかん。」と仰ったのだった。
誰かに暴走する自分を止めてもらいたかったのかもしれない。
そのひと言は僕の頑なに凝り固まりかけていた心と思考回路を解きほぐした。
そしてその時僕は変わらなければならないと思った。


ただ、今ふり返ってみて、あの頃の考え方は間違っていても、作っていたものに間違いは無かったと思う。
あのビードロの土鍋は今でも僕の心のひとつの柱になっている。





名張から京都への引越しを機にルーシー・リー回帰時代が始まった。

長い封印時代が去り、あらためて彼女の作品を観て衝撃が走ったのを覚えている。
なんとなくよろけていたり、すき無く作りこまれているようでどこか抜けているところがあったり、
感じるのは完全さではなく、人間的なゆらぎと不完全さであった。
学生時代、完全無欠だと信じて疑わなかっただけに、そのギャップに打ちのめされた。
いかにものをよく観ていなかったか、当時の自分自身の目と感覚の未熟さには幻滅したが、
不思議とルーシーには幻滅しなかった。
むしろ人間として親近感が沸き、もっともっと好きになった。
それは完璧ではないそのゆらぎの中にあたたかさが宿っているということ、
そして、そのゆらぎこそがルーシーのうつわの最大の魅力なのだと気づいたからかもしれない。

長い試行錯誤と混沌とした時間を経て、ようやく自身のやるべきことがわかり始めた今日。
20代の頃は抵抗があったが、作品を見て「ルーシー・リーっぽいね」と言われることにむしろ幸福を感じるようになった。
どこかにルーシー風味を感じるようなうつわを作りたい。
いや、寧ろそれしかない、それしかできないのだから。

ルーシー・リー、僕にとって唯一の原点であり、これからも生きる指針であり続けるだろう。







*1 トールキンの指輪物語の中に出てくる魔法の水晶瓶。主人公フロドが長く危険な旅に出発する時、エルフの女王ガラドリエルより授けられたもの。

*2 焼成方法のひとつ、温度上昇中も還元雰囲気で冷却中も1000度付近まで還元雰囲気を保つことでより強い還元作用を与える。

*3 ビードロ釉は伊賀焼きの景色のひとつでもある自然釉を模したもの、還元焼成により灰や素地中の鉄分が深い緑色に発色する。


2014年1月8日水曜日

渡英日記 その2~マンチェスター編~

渡英日記 その2~マンチェスター編~

1992年の初めてのイギリス滞在日記に現在の視点でコメントをしてみました。
当時の文章を読んでいると、自分の皮肉っぽい性格の悪さ(?)が顕著に現れているなと思います。
失礼なものいいは、若気の至りと思ってどうかご容赦ください。
マンチェスター滞在中のできごとを綴っています。





1992.8.1.

Manchesterへ行く日である。
Euston 駅から一路Manchster Piccadilly駅へ約3時間。
途中で昨日作った「すし」の残りを食ったが、はっきり言ってコゲのかたまったところばかりで、
何を食べてるのかわからんかった。
鳥のエサにしてもいいぐらいの感じがしたが、とりあえず口の中にかき込んだ。
Manchesterは予想に反してきれいな町である。路面電車Metrolinkは新しくてカッコイイ。
B&Bについたら、そこがまたとんでもないところだった。
でかいセントバーナードと子犬と子豚みたいな黒い犬、さらに猫までいる。
それも家のなかをうろうろしている。
せまい廊下を大家のおばさんにくっついて歩き回るものだから大変だ。
あたまがくらくらしてしまうが、大家さんはなかなか楽しい良い人だから
なんとかなるのではないだろうか。

 Re:
当時のBritish RailのInterCityは新幹線並のスピードで走るのに、ドアが手動だった。
外側にノブが付いてるので、降りる時は窓を開けて手を外に回して自分で開けるというもの。
数年後、自殺者が増えたとかで自動化されたらしい。
Euston、King`s Cross、ユーストン、キングスクロスていう響きが懐かしくて切なくなる。
なぜかロンドンから北へ向かう駅は独特の物寂しい雰囲気があったなぁ。
キングスクロスは当時よく聴いていたPet Shop Boysの同名の曲が「ネ申」

それはさておき、我が家を訪れた方はご存知かと思いますが、
現在の我が家はまちがいなく訪問者のあたまをくらくらさせる家だと思います。
合計総重量65kgの犬2匹がもれなく(激しく)お出迎えします。





1992.8.6.

Craft Centreというところはとても良い所である。
小さな店、それも工房と一体になったようなもので、作家の作っている様子も見える店である。
陶器、ガラス、金属、染織といったものを扱った店ばかりで、
こんな所で製作しながら店も持てたらなんぼええだろうか・・・
とうらやましく思いながら見ていた。中でも金工のアクセサリーは
自分でも作ってみたくなるようなものもあってなかなか良かった。
Craft Centreの近くにMarketのアーケードみたいなのがあって、
そこも面白い店(ガラクタとしか思えないものや、ボロいおもちゃ、わけのわからんオブジェ、
汚い古い写真など)がいっぱいあった。
G-Mexという昔駅だった市民ホールみたいな建物はカッコイイ。
Manchesterはいい。人もあまりたくさんいないし、思っていたよりきれいだし、
空気も水もロンドンより良い。
こじんまりとしたやかましくない町だから落ち着ける。

 Re:
ロンドンの水は石灰分がとても多くて、キッチンの水周りはすぐにまっ白になってたなぁ。
はじめてロンドンの水道水飲んだときは「何じゃ~この味~!」と思ったものです。
ほんとに石灰の味がした(気がする)。
それに比べてマンチェスターは飲みやすいやさしい水だったように思う。
水は国によって全く違うみたいですね。
そのせいか、ロンドンで買っておいしいと思ったハーブティーを日本で飲んだら、
「何じゃ~この味~!」となった覚えがあります。




1992.8.11.

Manchester Museumへ行った。
とりあえずたくさんのコレクションがあった。石、昆虫、動物出土品などと結構幅は広い。
~中略~
4階(昆虫の標本、植物の標本、爬虫類の水槽など)とにかくフタ付きのショウケースは
ものすごく開けて見るのがめんどくさい。
いちいちパタパタあけてたら手が疲れる。子供たちは中の標本そのもの見て楽しむのではなく、
パタパタとフタを開けては閉めることを楽しんでいるとしか思えなかった。
中身をじっくり見ている人は皆無である。
ビンに入ったホルマリン漬けの標本はおもしろくない。それにちっとも充実していなかった。
爬虫類の水槽はどのヘビもワニも目新しさが無くていまいち。
目新しければそれでいいとは言わぬが、
いまいちそこにそれを置く必然性がないと思えるものが多い。
いちばんすごいと思ったのは、マホメットの生まれた年から(700年ころだったと思う)
1800年頃までの樹齢の木の年輪を輪切りにした一部である。
まぬけなことにあまりのすごさで 何の木だったか忘れてしまった。
Redなんたらという名前だったかもしれない。

 Re:
いまいち、おもしろくない、充実してないと否定的な言葉のオンパレード。
「必然性がない」などまったく生意気にもほどがありますね。
でもやっぱりフタの開け閉めはめんどくさいだろうなぁ。





1992.8.13.

この日は何をしていたか覚えてないところを見ると、何もしていなかったようである。(16日)

 Re:
ほんとにあなた何しに行ってるんでしょうね?
他にも「ぐうたらして一日が終わってしまった。」とか・・・
ぼーっとしたり、ぐうたらしたり・・・時間無駄にしすぎ!!





1992.8.19.

Blackpoolという海辺の街に行った。
ここはLondonの近くのSouthendに似ている。とてもよく似ている。
ただここはやたらとイルミネーションのぼんぼりやちょうちんがぶら下がっている。
見渡す限りイギリス人ばかりで、およそ日本人が来て楽しんでいる様子などない。
海はコーヒーかココアみたいな色。古びたアイスクリームの屋台、
きたないPier、メリーゴーランド、遊覧電車、水族館(下品な)
ゲームセンターなどがあるが、どれをとってもさびれてるな~と思ってしまう。
夜にくればイルミネーションが輝いてきれいなのかもしれない。

 Re:
となり街のリバプールはとても有名なのに、なぜかそっちはスルーしてブラックプール。
イギリスの夏はとても涼しい。26度でも「やった~今日はスッゴク暑いぞ!」と喜ぶくらい。
この日は曇って風が強くて肌寒かったのに、みんなわずかな太陽を求めて水着姿だった。
ココア色の海に入ってはしゃぐ子供たち。アイス、ポテチと次々に菓子を食べ続けるお年寄り。
それぞれに夏を楽しんでました。それなのにあなたは一体・・・。
自分から訪れておいて、その否定的なものいいは何なんでしょう?
ちなみに次の日は「Blackpool行きのショックのため家でぐうたらしてすごした」とのこと。
・・・またですか?





1992.8.22.

Yorkへ行く日である。ManchesterからLeedsというところまで行って、
そこで乗り換えて行ったのだが、
はじめのLeedsまでの電車のおそいことおそいこと
何やら遊覧電車に乗っている気分になってしまうような遅さであった。
それはさておきManchesterから電車にゆられて30分もすると小高い丘のある
いわゆる田舎の風景が広がってきたのだが、
ひつじとか牛が緑のカーペットのうえに白く点々として箱庭になりそうな風景だった。
駅を出るとすぐに城壁が見えるが、Chesterのものよりも大きく整っていて美しかった。
緑の芝生(だと思う)と白とうす茶の石壁のコントラストはいかにも城壁の街という気がする。
Yorkの街は1階よりも2階、2階よりも3階が順にはり出すという建物の間を
石畳の細い道が通っているものだった。
どの店もこじんまりとしているのだが、それぞれに個性的なものが売られていておもしろかった。
広場にはたくさんの市が立ったりstreet performanceなどが
人だかりを作ってたいへんにぎわっていた。
ミンスターもすごい人出だったが、人さえいなかったらもっと感動するだろうというような大きく立派なものだった。
街の中の一角に開けたガレージになっているところがある。その真ん中にぽこっと緑の丘があり、その上に塔が建っている。
いきなりそんなもんが街の真ん中にあるのはあまりにも変だと思いながら中に入ってみたが、1.5ポンドもとられた。
塔自体はそれほど高いものではないが、上に登ると丘の上に建っていることもあって、なかなか高く思えた。
ミンスターもよく見えた。夕方から小雨が降り始めててあまりゆっくりしてられなかったが、
アメリカのNew Yorkとは似ても似つかないと思われるような落ち着いたよい街だった。

 Re:
ヨークはとてもかわいらしい街だったなぁ。
中世ヨーロッパ(?)の雰囲気たっぷりで、これからイギリスへ行く人にはおすすめ。
ヨークミンスターは天井が冗談のように高い。見上げてると首が痛くなるので、床に鏡が置いてあった。
人さえいなかったらもっと感動するって、あなたほんとに人嫌いですね。





1992.8.24.

朝6時半に起きて7時に朝食とってScotlandへ出かけた。
Manchester Piccadillyから電車に乗ってPrestonで乗り換えて行った。
いきなりすごい人で3時間くらいずっと座れずに入口横の広いところで
立ったりしゃがんだりしてて疲れた。
窓から見る風景がだんだんと北のほうに来たという高い丘が見えはじめたが、
とりわけ「スコットランドだ~」という感じはしなかった。
駅でInvernessに行く時刻表を見た後、インヴァネスのYHに電話したら、満員ということだった。
だんだんやる気が無くなって、この日はEdinburghにとまることにした。
駅からYHまで歩いたのだが、
人がいっぱいいて何やらロンドンに来たような気がした。
チェックインした後部屋に行くとドアノブが異常に固くて困った。
しかも10人部屋ということでもうすっかりやる気がなくなってしまった。
わたしゃ共同部屋とか共同生活にはむいてないと常々思っていたにもかかわらず、
こんなところに泊まるとは・・・
と思いつつ外の様子を見てまわった。全体的に重苦しい空気を感じるような街だった。
天気の具合もあるのだろうがやはり暗い。
エディンバラフェスティバルなるものが行われていて街は市が立ったりしてにぎわっているのだが、
建物の色が灰色(石)だからどうしても暗く感じる。
マンチェスターがレンガ色の街だったからだろうか。
しかしこの街は坂が多い。高い丘の上にエディンバラ城が見える。
いかにもヨーロッパ的な感じがした。
YHの近くにある教会はなかなか立派なもので、Yorkのミンスターよりも外見はカッコイイ。
高い三角の塔があるからだろうか。夜はライトアップされてとても美しい。
まさに夜空に浮かび上がっているようだった。
Scottish National Gallery of Modern Artもライトアップされて美しかった。
その日はYHで夕食をとって風呂にも入らずそのまま寝たが、よく眠れなかった。
2段ベッドの上の人は寝相が悪く、シーツをはじめに落としその後フトンまで落とした。
届かない手を伸ばして上の段から取ろうとしたはるから、取ってあげたりしたが、
あまりにも寝苦しかった。

 Re:
そういえば当時、「やる気なくなる」というのが口癖だったなぁ。
そうそう「やられた」っていうのもあった。
自分のやりたそうな事や、作りたいと思っていたようなものを見つけたとき、
「う~ゎ、やられた・・・」と。
なんだかどちらも「あきらめた感」のある言葉ですな。
あとやっぱり人が大勢いるところは苦手だった。まぁ今もそれは変わらないか・・・。

ちなみにEdinburghは「エ」にイントネーションがきます。「エーディンボァ」と発音。
Invernessは「ネ」にイントネーション。「インヴァネース」と発音。




1992.8.25.

朝食の後Scottish National Gallery of Modern Artに行った。
ここにはとりたてて目を引くものが無かった。
ジャコメッティの彫刻、パウル・クレーの絵ぐらいだろうか。
そのあとYHが泊まれなくなってしまったため、B&Bに電話して(何回もかけた後)
やっと見つかった。
結構遠いところでタクシーに乗っていったが、なんとなくあやしげで心配な気もするが、
とりあえず風呂、トイレ付きで良かった。
B&Bで一息ついた後National Gallery of ScottolandとRoyal Scottish Academyに行った。
National~はいわゆるルネッサンス~とかフィレンツェのなんたら~みたいなものばかりで、
見る足は速くなる一方。
Royal~の方はMiro展をやっていたが、これは良かった。
図録を買ってしまったぐらい良かった。
彫刻が多く絵は少なかったが、ミロの彫刻はあまり見たことが無かったから良い機会だった。
Galleryの横の坂道を登っていくとエディンバラ城であるが、
入城料が3・40ポンドもしてたからやめて、
城の下の丘に続く道をうろうろした。とても見晴らしがよく、遠くの海まで見えた。
風がきつく寒いぐらいだった。

 Re:
行き当たりばったりで宿を取っているあたりがいかにも学生の旅ですねぇ。
あやしげなB&B、その名も「マラケシュ」(だったと思う)。その名のとおりモロッコ風。
疲れて帰ってきて、「お風呂お風呂~♪」と思って入ったら
シャワーが水しか出なかったな・・・たしか。
それでも朝食はわりとおいしかったしボリュームもあった。
で、ゆっくり悠長に食べてるから電車乗り過ごすんだよな・・・。

ざわざわと音をたてる緑、風に煽られながら飛ぶかもめ、灰褐色の城壁・・・
スコットランドの思い出。




1992.8.26.

今日はインヴァネスへ行って日帰りしようと思って出かけたが、9時40分発は出てしまってて、
そのあとは11時30分発というどうしようもない状態だった。
結局ネス湖訪問はお流れになってしまった。
そのかわりRoyal Museum of Scotlandに行ったが、
ここは想像をはるか上回るコレクションの数だった。それに広い。
しかもきれいというBritish Museumが色あせて見えるほど立派なものだった。
まだ新しく完成していない部屋もあったのだが、
完成してなくて良かったと思うほど見てまわるのは大変なものであった。
足が棒になるとはこのことよ、というぐらい歩き回った。
どの部屋も広く、置いてあるものもその演出もなかなかこだわりを感じさせた。
とくにFishという海洋生物の部屋は本当に水族館に来たように思えるような
つくりものの水槽があった。
部屋の中も薄暗く水中を歩くような雰囲気がありとても良かった。

 Re:
なにかと出遅れる人生をこの頃からずっとかわらずに送っているような気がする・・・。
いや、この頃よりももっと前からだ。
つまり僕は生まれたときからずっと出遅れ続けているのかもしれない。
ま、それはさておき、このミュージアムはまた行ってみたいなぁ。
中央が吹き抜けになっていてとても美しい建物だった。
数あるイギリスのミュージアムのなかで一番印象に残っている。


2014年1月7日火曜日

渡英日記 その1~ロンドン編~

渡英日記 その1~ロンドン編~
1992年の初めてのイギリス滞在日記に現在の視点でコメントをしてみました。
当時の文章を読んでいると、自分の皮肉っぽい性格の悪さ(?)が
顕著に現れているなと思います。
失礼なものいいは、若気の至りと思ってどうかご容赦ください。
ロンドン滞在中のできごとを綴っています。

1992.7.9.

飛行機が出発したが、思ったより大した感動は無い。いつの間にか離陸していた。
はじめは町が見えてスゴイとおもったが、雲の上に出ると空ばかりだった。当たり前だが・・・。

窓から雲海が広がってるのが見えた。
夜明け頃、ご来光が見えた。飛行機の羽と雲の間にオレンジの太陽が見え隠れしてて、
もうなんとも言えなかった。
はるか下に川らしきもの、道路、家の明かりが星のように見えていた。
一面に広がる雲と地平線を見てて地球は大きかったんやと実感した。
一生忘れられん光景やと思う。
Re:
初めての飛行機と海外だったね。
いまでも本当に覚えてるよ、あの光景は。

1992.7.10.

ヒースローについた。
もうさびれててとてもロンドンの玄関だとは思えない空港だった。
入国審査のおっちゃんがいけずな人でとても困った。全く(でもないが)
何言ってんのかわからない。
ようやく入国できたあと、振り返ってみたら、その人のところで日本人らしき人が
またいぢめられていた。
Under GroundでKing`s Crossへ行くが、Under Groundは「きたない、せまい、ゆれまくる」と
三拍子そろっていた。
京阪電車のなんと高級なことかと思った。

Re:
空港のトイレで手を洗おうとしたら「お湯」と「水」のレバー。
「お湯」のレバーを押すとドババーっと熱湯!
うわ熱っ、と思って、「水」のレバーを押そうと思ったが、
ものすごく硬くてなかなか出ないので、えいっと押したらブッシャー!
ど、どうすれバインダー!
ヒースロー、とても思い出深い空港。

1992.7.11.

それにしてもイギリスの土地は平坦である。どこまでも丘がつづいている。視野が広い!
あと夜9時でも明るくて調子がくるってしまう。
12時頃になったらやっと夜らしくなってくるものだから一日が長くてしかたがない。
Re:
どこを見渡しても山が無い。そのせいか風がとても強い時があったな。
夏とは逆に冬は夜が長いらしい。暗い時間が長いより明るいほうが圧倒的にいい。
でもイギリスの冬も一度は経験してみたいものです。


1992.7.13.

Tower of Londonに行く。朝駅で一日乗車のTravel Cardを買おうとしたが、
早く来すぎて売ってくれなかった。
仕方が無いから雨の中バス停でぶーたれながら待ってから電車に乗った。
Fenchurch Street駅について紅茶飲んで一息ついてからTower of Londonの方へ行った。
中に入ったは良いが、すごい観光客の数である。ラテン系の人間が多く、日本人も多くいた。
カッコつけて英語版買ってわからんかったらあほみたいやし日本語版のガイドブックを買った。
昔の衣装着た案内のおじさんが大声でわめいているのをしり目にぐるっとひと回りして、
あまりじっくり全て見ずにみやげ物を少し買って帰った。
でも、中にある武器(ソード、ランス、ポールアックス、鎧など)の展示は
体力があればもっとゆっくり見たかったように思う。
Tower Bridgeの手すり、柵はきわめて悪趣味な色合わせでぬられており最悪であった。
(ドス黒い赤、白、軽薄なスカイブルー)風も強いし雨も降るしでさいあく。
それに最近まともな食事をしていない。昨日もイギリスくんだりまで来て
マクドだけには世話になるまいと思っていたにもかかわらず、
Pさんといつのまにか入ってしまっていた。
今日も橋のたもとの店でジャケットポテトを食べたが、何を食べてるのかわからなかった。
今日こそは早く帰ってまともなものを食べようと急いで帰った。
その晩は家にあるものでコンソメ野菜ラーメンを作って食ったが、なかなかよくできた。
ひさしぶりの手料理だったので、たいしたものではないにしても、
涙流してむさぼるように(かどうかわからないが)食べた。
Re:
中学、高校時代はD&D(Dungeons&Dragons)というテーブルトークロールプレイングゲーム
にはまっていた。
数人のプレイヤーとダンジョンマスター(進行役)が会話をして
冒険のストーリーを展開するゲームで、
僕は最前列でモンスターと戦うドワーフ戦士(ロードオブザリングのギムリみたいな)役だった。
自分が青白いもやし君だから、空想の世界ではマッチョにあこがれてたんですねぇ。
今ならウィザード(魔法使い)をやってみたいです。

1992.7.16.

今日はKew Gardensへ行った。
ものすごく眠たかったが、10時半ごろ家を出て、
Laindon駅からFenchurch street駅まで行って、Tower HillというUndergroundの駅から
Richmond行きに乗ってついた。
Kew Gardensへ行くまでの町並みはレゴのおもちゃのような家が立ち並びイギリスらしかった。
それにしてもKewは広い!それに木は大きいし、芝生はあおあおとしてきれいである。
珍しい植物がたくさんあるわけではないが、その落ち着いた雰囲気が、とても居心地がよく、
くつろぐ公園としてのツボをおさえた良い公園だと思った。
長いすがいたるところにあるのもうれしい。
あまりうろうろするのも体が半分寝ていてつらかったので、
半分くらい(もしかしてそれ以上)の時間はイスに座ってボーっとしていた。
Tower Hillの駅近くで買ったサンドウィッチはおいしかった。
ヒースローが近いせいか、もうひっきりなしに飛行機が飛び交っていた。
帰りの電車をいきなり間違えてしまったが、
親切なおじさんとおねえさんが教えてくれてどうにか帰りつけたのである。
Re:
この日はほんとうに足が重くて、まぶたが勝手に閉じようとするぐらいにヨタついていたなぁ。
キューガーデンは好きだけど、やっぱりなんと言ってもくつろぐならハイドパーク!
リスがあそびにきてくれたり、何時間ぼーっとしてもタダだし、
アルビオンミューズも近いし、最高!
ただ馬糞にはご注意。

1992.7.19.

わたしは今日はじめて「クリケット」なるものを見た。
Pさん(仮名)が好きらしく、Southendという海辺の町(Morrisseyの「Everyday is like sunday」の
ビデオの舞台)にある競技場に連れて行ってくれた。
ものすごい人(でもないかも・・・)だった。試合が始まるまでの間、
子供から若いにいちゃんまでがバットみたいなんを振り回して遊んでいたが、
皆とても元気で「若者なのね・・」と思った。
試合が始まるらしくなんかコート(広い野原みたい)の真ん中に人が集まってなんかし始めた。
先攻でも決めてるのかなと思っていつはじまるのだらうか?と待っていたら、
じつはもう始まっていたらしく、
周りの人が突然拍手したり声をあげたりした。
えっ!もうはじまっとるん?と聞くのもなんか失礼かと思ったが、
かといって何がなんだかわからないのに拍手したり面白がるのもよくない。
Pさんに一人6ポンドも払ってもらって観もしないで寝てしまうのはあまりにもひどい、
けどやっぱり眠いのである。
何か食べてでも起きていなくては・・・。前に座ったおばさんはえらく熱心に得点表を付けている。
30分目にしてすでに眠気がひどくなった。
とりあえず野球に似たものらしいが、日本に帰ったら
野球ファンになってしまうかもしれないと思うほど、
野球がいかに面白いか「クリケット」を見て思った。なんでこんなんで皆楽しめるのだろう。
なんかまわりは年寄りから子供までいっぱいいて、
とくにフーリガンみたいな若者が大騒ぎしていたが、
どうやったらこのクリケットでそこまで盛り上がれるのだらうか?
6時間ねばったあと、そのゲームは終わった。始まったときと同じように終わった。
いつ何点どちらのチームに入って、一体どちらが勝ったのかも分からなかったが、
とりあえず帰れるのかと思ったら、
Pさんがこれからクレイジーゴルフなるものをしにいこうなんて言う。
もう頭がくらくらした。すでに7時30分をまわっていた。
それにしても皆菓子や飲み物をよく食うね・・それにゴミをポンポン捨てるしきたないきたない。
なんであんなんなんだろう?
まったく今日ほど一日が長い日はなかったんではないだろうか・・・・。
Re:
「若者なのね・・」って君も若者やろ~!と言いたいですな。
Pさんはホームステイさせてもらっていた方。
今思うとあんなに親切にしてくださってたのに、なんだか失礼な態度で申し訳ないです。

1992.7.20.

朝からすごくねむい。今日は洗濯屋さん行って買い物してから、少し朝寝をしたり、
買ってきたスコーンとジャムでいかにもイギリスらしいお茶をした。
あまりにおいしいものだから、3つも食ってしまった。
そのあともまだ眠くてまた家の中でだらけてしまって1日がおわった。
Re:
あなたなんだか毎日ねむいって言っていますねぇ・・・。

1992.7.22.

Lucie Rie に会った。
・・・・・これ以上書けない。
Re:
あの時僕は、生涯消えることのない「光」をもらったんだと思います。

1992.7.24.

今度はBritish Museumへ行った。
すごい観光客だった。
日本のツアーイズムの人々が参加章とかいうバッジをつけてぞろぞろ歩いていた。
それにしてもおみやげを買う量が極めてはなはだしいのにはまいってしまった。
やはりここは観光名所なのね・・・。
関係ないが、Tower Hill駅近くのサンドウィッチはうまい。またしても買ってしまった。
これで三度目だから三度ウィッチ・・・またつまらんことをおもいついてしまった。
疲れてる証拠や。

British Museumは想像をはるかに(かどうかはわからないが)下回るところだった。
なんかがっかり・・・。
今日見るまでは、天井がすごく高くて床は大理石でできたカッコイイ建物で、
空気は冷たく足音が響くような室内だろうと思っていたのに・・・。
天井は低く、空気は蒸れたようなヘンなにおいがして、
観光客(自分もそうではあるが)とくに日本のじじばばツアーイズムと
ラテン系の人々がぞろぞろと練り歩くものだから、
とほほとなってしまった。
しかし確かに世界一というだけのコレクションの数々である。
よくこれだけのものを英国は略奪してきたものだ、とつくづく思ってしまった。
Re:
一体何様のつもりなんでしょうか?
自分のことを棚にあげて、人様をまるでばかもの呼ばわりしていますね。
それにツアーイズムじゃなくてツーリズムですから。

タワーヒルのサンドウィッチ!懐かしい!
パンと好きな具を選んでその場ではさんで半分に切って、2分で買い物終了。
ブラウンのパンにカリードターキー(タンドリーチキン?)が好きだったなぁ・・・。
多分この日もそう。

1992.7.28.

Lucie Rie のStudioを見た。
Maxというおじいさんは良い人だった。
Re:
正確にはDr.Max Mayerさんです。
何もわかってない僕に対し、とても親切に案内してくださいました。
いくら感謝してもしきれません。
それにしても、「おじいさん」っていうのはどうかと・・・

2014年1月6日月曜日

「すき」なもの



「すき」なものをつくりたい。

口もとから足もとまで全部「すき」と思えるものをつくりたい。

全部「すき」なものは僕のエネルギーと直結していて揺るぎない。

そうしてそれは僕の生きたあかし。

だから、本当に「すき」なものをつくりたい。

2014年1月5日日曜日

「ゆう」のこと



「ゆう」とは釉薬(ゆうやく)のこと。
「うわぐすり」または、「くすり」と呼ぶこともあります。

釉薬はやきものの表面を被い、
素地の吸水性を減少し、物理的強度を増加します。
定義としてはこんなところです。

ひとくちに釉薬と言っても、
種類を挙げればキリがないほど無限にあります。
あまりに無限過ぎて、気が遠くなるので、
釉薬を調合するときは、あえて原料を限定しています。
そして、配合レシピにはそれほど重点を置きません。
それよりも素地土との相性、厚み、焼き方などの条件を検討して、
より良い結果を求めていきます。
釉がけのときはカンに頼らず比重計を使って濃度を調整して、
釉薬それぞれに決まったタイミングでかけます。
窯焚きのときは必ずゼーゲルコーンを立て、温度表をつけます。
そうして残した記録は、後々困ったときに助けてくれるのです。

新しい釉薬の表情を見つけた時は、
いつまでも眺めてしまいます。
時には、地球誕生の瞬間を見るかのような不思議な気持ちになります。
もしも釉薬がこの世に無かったら、
やきものの仕事はしていなかったでしょう。
それほどに釉薬には宇宙的な魅力があるのです。

2014年1月4日土曜日

「かま」のこと



やきものを作る工程で最も重要なのが「窯焚き」です。

そして窯を焚くためには「窯詰め」をしなくてはならないのですが、
この作業がなかなか大変です。
できたら誰かにやってもらいたいくらい、本当に疲れます。
窯詰めの良し悪しが焼き上がりを左右するので、全く気が抜けないのです。
つまり、「窯焚き」は「窯詰め」の時から始まっている、とも言えます。

まず窯詰めの最初の作業は、作品の下準備。
素焼きした作品に付いたホコリなどを絞ったスポンジできれいに掃除します。
次に釉薬を付けたくないところに、撥水させる薬品を塗ります。
釉薬のバケツは底からよく攪拌して、メッシュに通します。
釉薬によって濃度、浸す時間が決まっているので釉薬の濃度はきっちり調整します。
そして順番に釉薬を掛けていきます。
すべて掛け終わり釉薬が乾いた後、掛かり具合をチェックしながら修正していきます。
はみ出したところを拭き取ったり、削ったり、筆で塗ったり・・・
修正が済んだら、窯の中へ詰めます。
窯の中は場所によって火の通りやすい所と通りにくい所があるので、
火の通りを考えながら詰めていきます。
最後の段を詰めたら、温度計とゼーゲルコーン(*)をセットして、
灯油をタンクに補充して準備完了。

毎回窯詰めが終わると、ほっとします。
自分のやれることはやったし、あとは炎の仕事、と・・・

窯の呼吸が乱れないように、炎が暴れすぎないように、
炎の色と噴出し方、煤の量や炎の音から判断して油量と空気量を調節。
最終温度に達してくると付きっ切りで温度管理します。
色見穴から覗いて、ゼーゲルコーンが溶倒するのを確認。
さらにしばらく焼成して窯の中を熟成させて火を止めます。

そして窯をよく冷まして、いよいよ「窯出し」です。
新しい釉薬のテストを入れた時は窯出しがとても楽しみです。
たいてい使い物にならないことが多いのですが、
中にスバラシイものがあると、いつまでも眺めてしまいます。
いつもと同じようにしているつもりでも、「あれっ?」と思うような失敗があったり、
何百回も焚いていますが、毎回何か発見があります。

自分でも不思議ですが、窯出しで失敗作が出てきても以前ほど落ち込まなくなりました。
失敗の原因のほとんどが明らかな自分のミスで、
「あぁやっぱりね・・・」と納得してしまうからかもしれません。

「すべての現象には必ず原因がある。」

当たり前のことですが、やきものを始めた頃からずっとこのコトバを持論としています。
その時わからなくても、このコトバを信じていればいつか問題は解決するのです。




*ゼーゲルコーン・・・所定の温度、熱量で融けて倒れる角錐状のもの。
             色見穴(窯の穴)から見えるところに置きます。

2014年1月3日金曜日

「つち」のこと



「つち」 とは、粘土のこと。
なぜだかわかりませんが、やきものをはじめてからそう呼んでいます。
今となっては、「ねんど」、と呼ぶのに抵抗さえ感じます。
別にどちらでもいいことですが、「つち」 と呼ぶ方が心地よいのです。
「つち」には「ねんど」より広がりを感じるからかも知れません。


陶芸家の中には、子供の頃のドロンコ遊びの感触が忘れられない
という方がおられます。
さて自分はというと、ドロンコ遊び・・・苦手でした。
手がザリザリしたり、乾いてきたらカピカピするのが嫌で嫌で・・・
それに、服が汚れるのも嫌・・・
工作の課題が、「ねんど」の日はとてもブルーでした。
そんな子供が、今や「ドロンコの日々」ですから、人生わかりません。
(まあ、今でもカピカピはちょっと嫌ですが・・・)


土練りのときのひんやりとした感触
ロクロを挽いたときの手のひらを押しかえす力
挽きあがったときのしっとりとした張り
削るときスルスルとリボンのように指の間を滑り落ちる様
そのどれもが心地よく、魅力的です。
そしてそのどれもが、「つち」だからこそ感じられるのだと思います。

2014年1月2日木曜日

「しのぎ」のこと



この数年、「しのぎ」という技法で作品を作っています。
ロクロで成型した後、少し乾燥させてから「カンナ」という道具で彫ります。
一本一本、カンナで彫っているといつまでも彫っていたいような気分になります。
(今は彫るのが楽しくて、ついやりすぎてしまうこともありますが・・・)

作る時、はじめからこうやって彫ると決めてロクロに向かうよりも、
まず自由に形を作ってからあとで彫り方を考えるほうが不思議としっくりなじみます。
立体となったその形をじっと見つめていると、「こうしてください~」と話しかけてくるのです。
そんな時にできたものは、迷いのない力強さを持っています。
逆に、無理やり予定通り作業を進めた時は、焼き上がってガッカリすることが多いようです。

確かに頭の中でイメージを作りあげて、その通りに作るのもひとつの技術です。
けれども、その時その時のひらめきを大切に作る方が、今の自分には合っているように思います。

これからのテーマは、一つ一つの作品の「一体感」をどうやってだしていくか、ということです。
釉薬とフォルムを融合させること、そしてそこに空気を感じるような、静かに存在感を放つもの。
そんなものが作れたらと思います。

2014年1月1日水曜日

主なお取り扱い店

<主なお取り扱い店>

●Second Spice (セカンド・スパイス) / 京都府京都市上京区河原町丸太町上ル(毎日新聞京都ビル1F)
TEL 075(213)4307


●阪急百貨店 うめだ本店 7F 和食器売り場 (クラフト工房)



<お取り扱いウェブショップ>

■暮らすうつわ とうもん

2014年の主な予定

<2014年の主な予定>

京都五条坂陶器祭
8月7日(木)~10日(日)
五条通北側、東山五条交差点より西へ10軒A地区10番

個展
会場:Cafe&Gallery りほう(京都北白川)
9月13日~21日(17日休廊)

グループ展
会場:阪急百貨店うめだ本店7階
10月1日(水)~7日(火)

キッチン展(グループ展)
会場:AC,GALLERY(東京銀座)
10月27日〜11月1日

六花展(三人展)坂本尚世(あかり) 山本亜希(フェルト) 増田哲士(陶)
会場:五風舎(奈良)
11月12日~17日

増田哲士 陶歴



増田哲士/ますださとし

1973 京都市に生まれる
1989 「Lucie Rie」の作品と出会う
1992渡英(約2ヶ月)
1993渡英(約2ヶ月)
1995 京都教育大学 卒業
1995 三重県名張市に開窯
2002 京都府船井郡日吉町(現、南丹市)へ転居